140字でおさまんないこと

見たい人だけ見てくれ

隙あらば自分語り

このタイミングかあといった感じもする。あんまり意味はない。

 


正直今公演についてあまり心配をしていない。のであんまりテンションも上がってない。安心感がものすごい。演技も割とガチガチに演出で固めたし、照明音響なんかも私の思う通りにガッチガチに固めた。本当になんの心配もないと思う。あとちょっと手は加えると思うけど。

 


自分語りする。

私が傷つかないように前置きもする。人生はあくまで私が私として見てるので多少被害妄想のケが強い文章になると思う。読むならそれを了承の上読んで欲しい。

 


中学生の時に内向的な人間になった。でも漠然と自分の容姿や身体能力的な部分以外、例えばいわゆる才能だとかそういう部分を信じていた。なりたいものがあったけど、多分自分の限界を知るのが怖くていつも諦めてきた。諦めた自分に対しても劣等感ばかりが募って自分に対する膨大すぎる自己愛と膨大すぎる自己嫌悪の狭間でいつも苦しかった。決定的な部分で自分に自信が無いからいつも行動できないし、行動できなければ周りの評価もそれなりになって、いわゆるできない子だという認識を周りからも自分からも刷り込まれ刷り込み続けた。そのうち、欲しいものにちょびっと触るだけで満足したと自分に錯覚できる人間になってしまった。

周りから期待されることがなくなった。それにも慣れて楽だしいいかと思うようになった。でもナチュラルに期待されない状況にとても落ち込んでる自分もいた。私はこんなもんじゃないのになって相反した感情を抱いていた。

 


大学生になって状況が変わった。

今回、たまたま私を信じてくれる人が沢山いた。私はできない子だと確信している人間がたまたまいなかった。

だからわがままをたくさん言った。役者の人数だって絞ったし、役者にも無理を言った。照明もだいぶ無理させた。音響も鬼畜すぎるし正直申し訳ない。簡易ではあるけど映像だって作っちまった。私が正しいと思うことを全部通した。多分信じてもらえないとここまで出来なかったと思う。

で、今現在ホール週になって、私は安心している。

私が思ってることは常に変わらないのに、私の言葉が足りなさすぎるし、私のアプローチが下手くそだから稽古場で役者に伝えられないことが多かった。それが、今。音響も照明もついた、今。きっとみんなに伝えられると思う。この舞台は五感で感じてこそなんだとひしひしと感じている。きっと素晴らしい舞台ができる。たかが新町の小ホールのくそ小せえ小屋だって言われるだろうし、なんか、こんな気分になってるのもホール週の疲れからってのも否定出来ないけど、この確信を私は信じたい。

私がやればできる子だって昔は私しか信じてなかったけど、やりたいようにやりなって言ってもらえたのが本当に嬉しい。信じてくれた人が支えてくれて本当に助かっている。私ができない子って思ってる人が誰もいないからか、自分でも自分が頑張れてるのが分かってそれが本当に嬉しい。

舞台が完成に近づいていっていくたび嬉しい。この戯曲でよかった。私、この公演が終わっても多分もっともっとすごいものが作りたくなる気がする。

 


嬉しいな~~~~!!

てか舞台まじでばちくそ綺麗なんすよ~~~!!

どうなるかはまあ分かんない!けど!たぶん!いい舞台になるよ~~~!

最初は予約少なくても別にいいやとか思ってたけど今はいろんな人に観てほしい~~~!!

 


おやすみなさい~~~!

『青野くんに触りたいから死にたい』ダイマ

青野くんに触りたいから死にたい

作品読んで作品について考えてたら止まらなくなった。

ダイマする。

 


この作品、ハマる人は絶対に超ハマる。えげつな面白い。

あらすじとしては、主人公・刈谷優里ちゃんが隣のクラスの男の子青野龍平くんに恋をし付き合ったら直ぐに彼が死んでしまい、幽霊になった彼と生活を共にするうちに怪異に巻き込まれていくというものだ。マジ、ちょっと説明しづらいからまず読め。こんなちゃちなあらすじに彼らの面白さはない。

ではどこが面白いのか。1つ目に挙げられるのは、作品内での幽霊の扱いについてだ。この作品、主人公の彼氏がマジで序盤で死ぬ。確か1話とかで死ぬ。そこから彼は幽霊になる。彼の死がショックで命を絶とうとした優里ちゃんの前に青野くんが現れるところから話はようやく始まるのだ。この作品内で幽霊たちはあるルールに則って行動している。というか、きちんとルールに則ってしか活動できないと言った方が正しいかもしれない。作品内で解明されていくのであえて名言はしないが、(私はよく2chとかのパラノーマルチャンネルとか読むんですけど)ああいった類の法則性がある。この作者天才か!と思った具体例をあげると、ある部屋に入ろうとした幽霊は中にいる人間の許可がないと部屋には入れない、というものだ。いや、分かんないかもしれないけどこれがマジで結構重要で、こういうルールが根底に描かれてるホラー作品(漫画)全然見ないから本当に私すっげえ感動してしまったのだ。そういった法則に基づく幽霊の扱いがこの作品では随所に見られる。

 


次。

次の面白いところは、恐怖の表現方法だ。この作者、はっきり言って絵がとてつもなく上手いわけじゃない。でもコマの一つ一つがとても丁寧に描かれている。そこが歪でとても恐ろしい。上手く表現出来なくて恐縮だが、ダイレクトに登場人物の感情が伝わってくるのに視界がイラストに対し違和感を訴える。そこが感情と思考の中で妙なミスマッチを生み出しこの作品全体を不気味なものに仕上げているのだと思う。あと、登場人物の人間性の設定と描写が天才的すぎる。この作者はこの作品以外に一つ短編集が出版している。そこでも如実に感じるのだがこの作者が描く人間はみんなどこか歪んでいるのだ。絶対に1人はこんな人間近くに居るよなみたいな歪んだ人間を描くのが超うまい。内臓えぐられる。よく描けるなこんな描写ってむっちゃ思う。超大好き。3巻あたりでやっと出てくる登場人物・優里ちゃんの姉が個人的には大好きだ。というか優里ちゃんの家庭が大好き。もうハチャメチャに歪んでるんだあ。でも誰もそこに気づいていないのが超好き。あとコマ割りがえげつない。いやいやこんな大コマにこんなえぐいの持ってくんな、怖い怖い、大好き。って絶対なる。すっげえホラー。しかも造形がグロいとかじゃなくシチュエーション的怖さだからもうやばい。天才だよ椎名先生は。登場人物と吹き出しと背景とか、絵としての引きというか……。まあとにかく天才なんだ。

1番最後になってしまった。最後の魅力は、優里ちゃん青野くんカップルの可愛さと悲しさだ。何度も言ってるが青野くんは物語の最中ずっと幽霊だ。生身の優里ちゃんと青野くんが触れ合う描写は一切ない。まじで悲しくなるくらい全然ない。だから、彼らは人間と幽霊ならではの触れ合いをする。霊体の青野くんが優里ちゃんの枕に体を重ねて実際に青野くんに抱きついているように錯覚させたり、自分の手と相手の手を重ね自分の手を相手の手に見立てて服を脱がしあったり……。最初は枕と一体化した青野くんに笑ってしまうのだが、だんだん話が進むにつれ彼らの触れ合い方法に悲しさしかこみあげてこなくなる。どうして彼らは幸せになれないのだろう、互いが好きなだけなのにどうしてこうなってしまったのだろう。そして、物語はどこに進むのだろう……。

 


青野くんに触りたいから死にたい

は現在4巻まで発売中だ。その4巻もつい先日発売されたので続きは来年5月になるらしい。

マジで早く完結して欲しい。完結して欲しくないけど。

4巻まで読んだ人と語りたい。だってもう恐ろしすぎる。無意識のうちに私達は青野くんはとってもいい人と刷り込まれてたけど実際生きていた青野くんの描写は限りなく少なくて、彼の家庭環境とか彼がどういった価値観の持ち主なのかは全然最初から明言されていなかった。それは大体の漫画という作品に対して当てはまるものだとは思うけど(登場人物の親や家庭環境が出てくる作品は中々ないと思う。またはそれらは特筆して描く必要がないと私が思っているからか……。)それを何だかんだ逆手に取られた気分で私は目からウロコだ。私だけかもしれないけど!

この作品、暗殺教室とか僕だけがいない街と似た雰囲気を感じる。上記二つはどっちも絶対1番最後の終わり方は確実に決まって始まった作品だと思う。だからこそ作品の随所に伏線が張り巡らされている。

だからこそ、面白い。

自論だが、完結を目指して展開していく作品ほど面白いものはないと思う。なんてったってもう高揚感が違う。作品を読み返す手が止まらない。ああ、もう本当に大好き。

 


話のオチが付けられなかった……。

とにかくパラノーマルチャンネルとか好きな人は私に声掛けて欲しい。もしくは買って欲しい。買って絶対損は無い。面白い。呼んでね。

 


おやすみなさい。

良心

良心ってどこから生まれるんでしょうね。

共感性とかでしょうか。

私は、3、4歳ぐらいの児童がスコップとかで犬猫をズッタズタにするとか大好きなんでよく考えます。そもそもですけど、私が、この『自我が伴わないが故に残虐行為をへとも思わない幼児の残虐性』が好きな事自体私に良心(または常識)があるから成立するわけじゃないですか。犬猫をズッタズタにする行為が道徳に反してると私が思ってるからこそ成立するわけじゃないですか。じゃあ私がこの常識を他に入れたのは一体いつなんでしょう?

それこそ最初に言った共感性が生まれれば「こんなふうにズタズタにされたら僕/私は悲しい」って気持ちも生まれてそういった行為に罪悪感を抱くんでしょうか……。うーんわからん。

常識っていう定義もくそ曖昧ですしね。誰でしたっけ、誰かが「常識とは成人するまでに手に入れた偏見だ」とか言ってますよね。それくらい個人によって偏りがあるのに関わらずみんなに共通した観念もある。不思議だー。

 


ちょっと違う話ですが、私は人間一人一人何かしらのバグを抱えてると思うんですよね。すっっっごいノーーーーーマルな完璧な人間っていうベースがいて、そこから派生している感じ。バグは、例えば黒目の大きさだったり胃の消化率だったり足の有無だったり、それこそ共感性が欠如していたり。人間、多かれ少なかれ大きかれ小さかれ何かしらのバグを抱えてると思うんです。それを個性と呼ぶ人もいると思います。個人的に個性って言葉は嫌いです。何が個性ですか。全部欠陥ですよ。バクですよ。個性なんていうていのいい言葉でオブラートに包まれてたまるもんかって思うんです。事実は事実です。

また話がそれちゃうんですけど、いわゆる障害を抱えてる人に無駄に優しくする人間が小さい頃から嫌いです。その人が出来なくないのに日常生活のあれこれを全てやっちゃうような人。それってつまり根底でその人に同情してると思うんですよね。同情ってつまりは下に見てるってことだと思うんです。お前だって欠陥品なくせに同じ人間を見下せるのかよって思うんです。どうしても対等という言葉が好きなんですね、私。だから慰めるっていう行為も苦手です。一瞬でも目の前の人を見下していないかとか考えてしまいます。でも自分がへこんでる時は普通に優しくして欲しいって思うんでその時その時の対処法というか、骨折したら松葉杖つく、みたいなそういう手当だと思うと慰めるっていうのも必要なんだろうなあとは思います。心のケアね。

 


閑話休題

 


なんの話しでしたっけ。

良心の話か。もう新島JOEも面倒な学校作りますよね。私は不真面目ちゃんなんで彼がどういうことを目的として良心教育なんて掲げたのか授業聞いてないんで知らないですけど。

なんか疲れちったのでおしまいです。

 


おやすみなさい~!いい夢を~

あんま面白くない話

『お父さんと伊藤さん』っていう映画を見た。

なんかやべーほど超身近にありそうな話だった。私も20代とかで就職したらなんだかんだ辞めちゃって三十路でバイト生活なんかな~とか、自分より20も上のおっさんと付き合っちゃうんだろうかとか、リリーフランキーなら付き合っちゃうな~とかとか……。リリーフランキーみたいな(ハゲてるけど)独特な雰囲気ある人好きなんですよ……。(ハゲてるけど…)

話の大筋は年老いた父親が20上の男と住んでる家にやってくるってのだった。両親が年老いていく悲しさというか、自分にも生活があるし親を拒否したいけどやっぱり親は親だし捨てられない…みたいな葛藤を感じた。つれーなーーと思った。

ちょっと違う話になるけど……。

自分のこと話すの好きなんで人を選びつつこの話をしているので、このブログを見た人で既に知ってる人もいるかもしれない。

私は、家族という集団に対して不信感があります。厳密に言うと、世間一般が家族はいいものでなくちゃならないって思い込んでること、に対して。

親とハチャメチャに仲が悪いとか、そういう自分自身の体験が元になってるわけじゃないので別に心配とかしないで欲しいんだけど、漠然とそういう気持ちを抱いてる。

みんなは他人の家族を見ていて、幸せそうだなって思うことはないだろうか。まあ往々にしてあるんじゃないかな。隣の芝は青いって言うし。基本友人の家は、なんだかんだ言ってこいつの家幸せなんだろうな~って思う。究極他人の家だしそこまで興味はないし。

ある友人に対しても、私は当たり前のようにずっとそう思っていた。あんまりその数年そいつと関わらなかったってのもあるけど、いつも通り幸せな毎日を過ごしてるんだろうなあと漠然と思っていた。で、久しぶりに会った時に「ご両親最近元気?」と聞いた。したら驚いたことに片親が亡くなっていた。もう本当に驚いた。はちゃめちゃに驚いた。亡くなった両親の方と面識があったってのも、そいつが親と仲がいいところを見てたってのもあるし、なにより関わりがなかった数年でさえ奴がへこんでる瞬間の噂が1ミリも耳に入ってこなかったから。

その時になんか自分の勘違いというか、家族ってなんだろうって思った。

世の中にはなんか「家族は幸せじゃなきゃいけない」みたいな風潮ありません?私だけかもしれないんですけど、そういう風潮に不信感がある……。

片親がいなくたって幸せな人はいるし、家の財力とかそういうのが満たされてても不幸せな人もいるし……。父親が認知症だって母親の片腕がなくたって弟が生まれてからほぼ植物状態だって、周りから見れば不幸せな家庭に見えるけどその渦中にいる人物にとっては日常なんだから、それは不幸せの定義にならないんじゃないか……みたいな。

 

 

 

〇ちょっと違う話〇

親ってなんだかんだ言ってこいつ人間なんだなって思ったことないですか?私はよくあるんですけど……。

母親に対してよく思います。こう、母親に対して昔は「母親ッッッ!」みたいな尊敬の念というか、「この人は私の親だから絶対に間違ったことを言わない。この人が言うことは正しい」みたいなことを漠然と思ってたんですよ。だから母が私が正しいと思ってないことを言うことに対して不信感を抱いたりとかしてたんです。私の意見は絶対正しいはずなのに、何でこの人は違うことを言うんだろう?なんで?私が悩んでるのになんでこんなに冷たいんだろう?とか。

でも最近、母のことを人間だと思って接してみると、この人は自分とあくまで他人だから私が正しいと思ってないことを言うし、私の愚痴はこの人にとって別に興味無いことなんだなって思うようになりました。友達みたいな感覚で母と接するんです。母が悪くいう人のことは私も悪く思うようになってましたが、その感覚も疑うことにしました。母は本当に私とは他人なんで、似てるところはあれど違うところだらけだと思うと全然悲しくなったりしなくなりました。

閑話休題

 

 

 

離婚がダメみたいな風潮あるじゃないですか。ドラマとか。離婚しようとしている親をとめたいってこどもが泣くから、赤の他人がお節介で「離婚はいけない!」みたいに言うやつ。

私もココ最近まで離婚はダメだろみたいなふうに思ってたんですよ。でも考えてみてくださいよ。例えば大学時代に付き合った男とそのまま順風満帆結婚したとしますよね。大学時代は時間に余裕もあって優しかった彼が、社会人になってから余裕なさすぎて常にイライラとか十分ありえる訳じゃないですか。人が変わってしまう可能性が十分にある訳じゃないですか。だいたい離婚の理由はいつも相手に見切りをお互いにつけた時です。相手を理解しなかった時です。しらんけど!でも、イライラしている相手を理解しようと思えます?無理ですよね。昨今は(あくまで私の感覚ですが)個人の自由とか権利みたいなものを尊重しようみたいな風潮も強いように思います。何を決断するにも自分の責任のうちであればOKなわけですよ。そりゃ離婚しますよね。外から幸せそうに見えても内情はそうじゃないんでしょうから。

そうなってくると次に問題になるのは子供の存在ですよ。なんかありますよね、子供の権利(?)みたいなのをめぐる色々。私はよく知りませんけど。

親はどこまで子供に責任を持てばいいんでしょうね~。一応法律的に私たちは(税金払うって意味で)20歳まではこどもですよね。それまでは親はこどもの責任を負わなければいけないわけです。でも血の繋がりはあろうと子供と親は自分とそれ以外という点において決定的に他人で、そして個人の権利が認められ始めた昨今をふまえれば私は子供が何歳であろうと離婚していいと思います。

(なんか精神的な話と現実的な話が混ざってしまって恐縮です)

でもそんなまだ小学生にもなってないこどもに明確な自我があるともいえません。

「離婚していい?」

「まあお母さんの言わんとすることは分からなくもないよ。お父さんアレだもんね」

「どっちついてくる?」

「経済的にはお父さんの方がいいけど……。個人的にお母さんが好きだからお母さんで」

とか絶対ないでしょ……。

(ここからは家族とかの話から話題が変わります)

 


子供は一体いつから自我を持つんでしょうね~。興味深いテーマです。絶対誰か研究してます。

というか自我?みたいなのはどうやってできるんでしょう。ハウトゥーメイク自我。自分に自我があると明確に言えるわけじゃないですけど、まわり見ててたまにいません?この子周り見て生きてんのかな……とか、いつも自分の話ばっかり……とか、自分の自意識とか自己愛の強さがダダ漏れって気づいてないのかな……みたいな人。自分が出来ないので、そういう、自分が周りからどう見えるかを踏まえて行動できる人が好きなんでそういう人には自我があるように思ってます。平たく言うと、大人だなあと。

逆に、自我はどうやって無くなっていくんでしょう。認知症とかそうじゃないですか。だんだん脳みそのバグが多くなるイメージがあります。

自我のないこどもは親に幼少期の責任を取ってもらい、自我のない老人は子供に高齢期の責任を取ってもらう……。そんな図が日本には昔からあったんだと思います。それが高齢者が昔より長く生きるようになって、退職して数年の責任を子供が負うだけで良かったのが十何年と続くようになった、みたいなふうに私は解釈してます。どこかで読んだか聞いたことがあるんですが、子供は最初手間がかかっても成長を見届けられるから苦痛ではないけど、高齢者はどんどんできないことが増えてって手間ばかりがかかるようになる自分の親を見るのが苦痛だ、と。しかも幼少期よりも高齢期の方が最近は長いですからもう地獄です。

家族というシステムは上手いシステムだなと私思うんですよ。孤独死とかあるじゃないですか、あれの責任を取る人が必ずいるんです(そもそも家族がいる状態では孤独死とはいいませんけど…)。どういうことかと言いますと、結婚して家庭を持つじゃないですか。昔ならおうちも2世帯とかで住むんででかいですし、絶対に誰かが誰かの健康状態を見てるわけです。突然倒れても絶対に、忘れられるってことがないんですよ。孤独死の問題はここにあるわけじゃないですか。誰にも見つけてもらえないしもし見つけてもらっても貰い手がないから無人仏とかに葬られるっていう。よく出来てますよ、家族ってシステムは。

まあ先述した通りその上手くいっていたシステムが、高齢者の超高齢化とか個人の権利とかの問題で崩れ始めてるわけですけども。

 


そんな中で、年老いた親、どうしましょうかね。一緒に暮らすにも私にも家庭が既にあるかも知らないし、単純に親のことを嫌いになってるかもしれないし。理論的には、現実的には、使えない人間は捨て置いた方が楽です。ンなもん捨てたもん勝ちです。でも……。

私はできないかもしれない。お母さん大好きだし。彼女がいくら年老いてなんに出来なくてヨダレとか垂れ流すような人になっても、彼女が私と決定的に他人だとしても、きっと捨てれないと思う。

そんな濃い血の繋がりを感じた映画でした。

 

 

 

実はこれ映画の感想なんですよ。知ってた?

 


終わります。次のブログとかで親に対する無条件的信仰心の話とかしたいね。

 


夜はまだまだ浅いですが。終わりはこれと決めたので。

みなさんおやすみなさい。いい夢を。

私が面白いだけの話

好きなアーティストさんが復活したらしく、その動画の曲を今ちょうど聴いています。

夏の終わりの曲です。

あと、このブログをまた書いてますね。

そんで夜中3時、いやもう4時か。それなのにかかわらず風呂にも入らないでこたつに入って団子を食いました。みたらし団子です。うちではたまに出ます。

あと、割りと久しぶりに絵を描きました。久しぶりって言ってもホール週終わって一週間経ったし、それから何回か描いてるので別に特段久しぶりってわけでもありません。

 

そんな中考えてました。考える行為って不思議だなあと。

 

曲聴くじゃないですか。

なんか私の感性的なところがくすぐられて何とも言えない、郷愁のような気持ちがわいてくるんです。これに頭は使われてません。めんどくさい思考回路のパズルはまったく関わってないんです。

団子食うじゃないですか。みたらしの味がするじゃないですか。でもそれにも別に頭使ってないんですよ。漠然と、あーみたらしの味だなあって。

絵を描きました。女の子と、手を描きました。年間でまあまあの数、私はらくがきをするんですよ。それを小学3年生ぐらいの時から続けているので、まあ約5年?くらい?ですか?それぐらい続ければまあへたくそな奴にも慣れってのができるわけで、あらかたの手なら自分のを参考にしなくても描けるようになるんです。それこそ、頭を使って深く考えずとも。

その時になんか気づいて。

頭使ってねえな~って。感じるっていうか、脊髄反射?ともまた違うんですけど、なんかほんと思考するって行為してないなあって思いました。

だから何ってわけでもないんですけど、なんというか……。

誰でしたっけ。「人間は考える葦だ」っていう哲学者の言葉を思い出しました。

今私を人間たらしめていたものは何だったんだろうと思いました。

人間は頭をつかい思考するからこそ人間なのだとすれば、今私は何だったのか。

今の私の考えていることが意図することと、この哲学者の言葉は微妙に違いますかね。すみません。

 

人間の定義の延長線で、生死の話しましょうか。

生きている/死んでいる定義として、最初に挙げられるのは心臓の拍動の有無でしょうね。まあ当たり前でしょうなあ。次は何でしょう。脳死、とかですかね。(あえて配慮なく平たい言い方をするならば)脳が生きてなくて意思疎通が取れないんじゃ生きてるかわかんないですもんね。

私的に、これをもっと拡大解釈すると「考える行為」も生きる/死ぬの定義に入ると思うんですよね。人間の生きる意味にも通ずる話になってくるんで、そっち方面の話はあえて省いて話しますね(ながくなるので)。

例えば、仕事に忙殺された人がいるとするじゃないですか。その人の頭の中は仕事でいっぱいなわけです。事務作業とかそういうのはわかりませんが、とにかく仕事を効率的にこなすことばかりを考えてるとしますよね。これって私生きてないと思うんですよ。

自分で話してるのにうまいこと言えなくて恐縮ですが、自分のために思考していないというか。「効率のことを考える」の「考える」は学校で数学の答えを丸暗記するの考えると同じで、私が言う「考える」行為は物事に対して自分で疑問を抱きそれを解決するために考えるという意味合いです。或る意味この人も脳死です。脳みそが死んでいるんです。

 

ほかには、認知が生きる/死ぬの定義に入ると私は思います。

極端な話、戸籍のない赤ん坊は生きていると社会から「認知」されていないので生きているとは言えないでしょう?そういうことです。

ドラマとかでもよくあるじゃないですか。死んでしまった恋人を忘れるのが怖い、みたいな。誰かの記憶で覚えていてもらわないと私たちは生きていないのと同じことなんだと思います。だからみんな生きていたくて、誰かの記憶に残りたくてスーパースターになりたがったり誰かの特別になりたいんでしょうね。

そうそう、無視されるのがどうしてつらいのかって、自分が生きてないことにされるから≒自分の存在否定だからですよ。

 

 

 

……さすがに今のは詭弁すぎますかね~~~笑

まあ理論的にはあってるでしょう。知らんけど!

あとまた第三者からの認知の話してしまった。私の永遠のテーマというか、もうほぼサビなんです。リフレインばばあなんです。すみません。

演劇の話もなんかついでに思い出してたんだけど何だったかな~~。忘れてしまった……。というかこんな話せずにさっさと寝ないとなんですよ……。

いろんな人から共感得られてうれしいんですが、寝るまでの作業っておっくうすぎません?寝間着用意して、髪梳かしてメイク落として、髪の毛も体も洗わなきゃなんないし、風呂あがったら上がったで保湿やらなんやらもあるし、一番めんどくさいのは髪の毛を乾かさなきゃ布団に入れないことですよ。くそーーーーー!結局髪の毛じゃないか!!

そうこう言っている間に、適当につけていたアマゾンプライムの映画が終わってしまった……。

もうほぼ朝ですが。

 

みなさんおやすみなさい。いい夢を。

 

見たい人だけ見てくれ②

タイトルには書いてないですが①の方。あっちは深夜に書きました。今は起きたてで書いてます。

 

 

思い出したこと。

いい役者悪い役者、ってなんでしょう。

結論からいえばそんなものの定義ってないです。

ですが私は人間で、感性があって、一応自我もあるので考えてしまうわけですよ。

先述した通り、私は自分の演技がでかいことがまあ~~~~~~~~割とコンプレックスです。なので逆に、自然な演技をできる役者に惹かれます。あとは、ばちくそに熱量を持った役者。

私にとっていい役者とはそういう人たちです。演出家になったことはありませんが、そういう~なんですか?演出家魂?というか?育成してえ~みたいな、この人のこういう顔みてえ~みたいな演劇オタクな私の心が疼きます。

それとは逆に、私にとって悪い役者ってのもあります。これはあなたと会った時に聞かれたら答えますね。まああんまりいないんですけど…。

 

さてさて、ですがこれは私の主観・私のものさしで見た場合のいい/悪いであってその他誰のものでもないんですよ。世の中一般的に、下手だけどいい役者はいますよね。上手いけど悪い役者…も多分いるんでしょうね。

世の中の『一般的なものさし』ってのが欲しくなりますね。

自分の基準で「この人はこういう役者」って規定しちゃう私が私は好きではありません。演劇の可能性を狭めてしまう可能性がありますし、非人道的だからです。

 

ひとまずこの議題の結論は私が私を好きではないってことで終わりにします。終わりがないので…。

 

 

 

さて、もうひとつ思い出したこと。

演劇をやっていると、ある程度パターン化された空気感?っていうんですか?そういうものの作り方が分かってきます。ここでこういうふうにセリフ言ったらいいんだろうな~とかこれくらいの間をあけていればいいだろう、とか。そういう予測がたつんですよ。

それを回避するにはどうしたらいいんだろうって考えていました。

そもそも、そういうパターン化が起きる原因はどこにあるのでしょう。脚本家・演出家の指示が毎公演同じであるなどの理由が上げられます。また、作品の系統や伝えたい内容が同じだったりそういう、そもそも作品(脚本?)の類似やシーンの類似がそういったパターン化を引き起こしているのではないでしょうか。(平田オリザの作る作品は似通ってるとかなんとか……みたいなね)

では役者の私たちにできることはなんでしょう。まあ第一に挙げられるのは役作りでしょうか。

 

 

 

〇どうでもいい話〇

だいぶ話は変わるんですが、役作りってなんでしょうね。不思議です。え?役ってなんですか?私たち役になりきれてるんですか?そもそも役ってなりきるものなんですか?なんなんでしょう?

ちょっと昔にTwitterで言ったんですが、あんまり精神に干渉する?役作りの方法を私あんま信じてなくて…。自分の内面から変えても外から見た自分が変わってなくちゃ役作りできてるとは言えなくないですか?

 最近こればっか言いすぎてマジリピートババアとなりはててるんですけど、演技は要は熱量と表現方法です。その場その場で演出家が意図した演出を客が受け取れるように正規のエネルギーを正規の表現で発散する、それが現在私が考えている演技の結論です。究極的な話をしてしまえば自分の感情ってあんまり関係ないと思うんですよね。勝手に感情を暴走されてその場で魅せたい役者を魅せれないなんて状況、演出家からしたらクソ最悪ですし。

話がだいぶそれました。

閑話休題

 

 

 

上で書きましたが、だからといって私は完璧論理的に発散だけを考えて演技してるわけじゃないです。わりと地に近いところから派生した役作りをしてると思います。おそらく私が人生で違う分岐を選んでいたらなっていただろう人、というか。むっちゃ興味ないでしょ、すみません。こんなことが書きたいんじゃあないんです。

脚本によってそりゃあキャラクターは変わるじゃないですか。でも限りなく似たようなキャラクターっているじゃないですか。沸点が一緒、みたいな。そこでどれだけ微細な違いを出せるかなんだと思います。

でもでも!役者ずっとやっててずっと何かしら吸収してたら得意な空気の作り方って絶対でちゃうと思うんですよ。で、みんな(全演劇人)が得意な空気の作り方ってのも絶対あると思うんですよ。

 

 

 

〇どうでもいい話2〇

まっっったく本文と関係ない話をするんですが、普遍性って一体どこから生まれるんでしょうね。私こういう話大好きなんですよ。

人間ってみんな違ってみんないいとか言うじゃないですか。確かに、友人見回したらみんな名前も違って好きなことも違って今まで生きてきた場所も経緯も何もかもが違うじゃないですか。そもそも親が違うんだから価値観が全然違うじゃないですか。

でも、それに共通性を見出すことは出来るじゃないですか。

面白くないですか?みんな違う~とか言ってるくせに同じところだらけなんですよ。極端な例で言うと、目と鼻と口があるんですよ。なんでなんでしょう。でもそれぞれの形は違ったりするんです。

この人普通だな~と思ってもその人に普通じゃないところもあるわけです。そもそも、その人が普通だと私たちが判断できる要素は一体なんなんでしょう。みんな違うはずなのに、そのみんなに普通を見いだしてるんです。私たち。

ごめんなさい、日本語下手くそなんです。分かりづらいな~~~!ごめん~~~!

ちょっとでも面白いと思ってくれたらリプかこちゃくれ!

閑話休題

 

 

 

何を言いたいか忘れた。理論だててたはずなんですけど上の閑話休題2書いてるうちに忘れた……。あと1番最初に目覚めてから書いてる~とか言ってたけど普通に今バイト終わりの電車の中だし……。つかれぴ

 


結論だけ言うと、役者の絶え間ない努力が必要、役者は常に進化し続けなければならない、脚本のせいなら仕方ない、以上です。

 

 

 

バイト疲れた。

みなさんおやすみなさい。いい夢を

見たい人だけ見てくれ

とうとう作ってしまった……。

すでに死にたさがすごい。

 

 

こういうブログって顔が一致してない人間のものをみるからいいのであって、私のことに興味ある人間いるのか全くわからんしそういう点でとても今不安だ〜〜〜〜!イキってごめん〜〜〜〜!あと根本的に自分が大好きで自分のことしか書かないよ〜〜〜!ごめん〜〜〜!でもブログって本来そういうものだからな〜〜〜!

 

 

さて、さいしょに謝っちゃったので色々書きます!演劇のことが主だと思います!

 

 

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まず今日他劇さんの劇観てきました。

ここで大っぴらに感想を書くつもりは無いんですけど、観ながら自分に還元して考えてたことをちょっとずつ書いていきます。

まず、所属してる劇団と私自身のことを考えていました。

私の演技はよく人から大きい演技だと言われます。自分でもその自覚はあります。声がでかくなるにつれ演技もでかくなる傾向にあります。それが私自身とても嫌なんですよね。

話はちょっと変わりますが、1番使える役者とは一体なんでしょうか。多種多様に顔・体を使いこなせ何役も何役もできるクセのない役者でしょうか。それとも、数は限られていれども特殊な役をうまくこなせるクセのある役者でしょうか。

これは稽古期間やその演出家が誰かとか演出の方向性など、その時々の状況によって使える役者の定義も変わるので、議論する必要性が全くないので省きます。

が、沢山体の使い方ができた方がいいに決まってるのは確かだと私は思います。

そういう点で私は自分が劣等生だと思います。クソなんですよね〜〜〜。基本的に〜〜〜〜〜!中学から演劇やってるんですけど、そん時から1ミリも成長してない気しかしないんですよね〜〜〜!果てしなく、綺麗な動きが苦手すぎるんです。この劣等生〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!

 

で。

 

思ったのは自劇団に私はふさわしいのかということです。

私すっげえ自劇団のことが好きなんですけど、好きだからこそ不安になります。

自劇団のファンである自分に対し、自劇団で役者をしている自分は解釈違いではないか…。

自劇団には輝いている人物しか必要ないと言う自分の解釈違いになっていないか…。

以上です。特に結論は無いです。病んじゃうからね。

 

 

次に考えたことは、記憶についてです。

これは劇の内容に即してきますね〜。別に感想ではないです。

劇中で記憶は大切だ〜大切にしたい〜みたいな内容が話されていました。脚本家が優しい人なので、ぽいな〜〜〜と思いました。

しかし私はそうなのかな?って思いました。別に記憶って大切じゃなくないですか?というか、この世に大切なものなんてなくないですか?

 

これは私の持論なんですが、世界は無意味です。

 

この劇の演出の言葉で『人類五分前仮説』の話がありました。私この話大好きです。世界の無意味さをひしひしと感じさせてくれるいい話だと思います。

いつだって世界は突然なくなってもおかしくないです。それこそ、私が突然死んだら私が見ている世界が終わって、それは(私にとってのではありますが)世界の終わりです。

数年前によく考えた話があります。それは、この世から人類が全員いなくなった時、果たしてそれは世界が現存していると言えるのかという話です。人っ子一人いなくなって、そもそも地球という世界があったことを認識することが誰も出来ない世界は果たして存在しているのでしょうか。世界は誰かに記憶されることによって現存できています。物事は全て第三者に認識されることによって存在しているのです(この話は私大好きなので、また違う場面でも出すと思います)。

人類全ての記憶、また記録が私たちの世界を作っていると言っても過言ではありません。

例えば、土の中から発掘された一枚の紙に100万年前(本来紙がこんなに残ることは無いと思いますが)の生活の様子が書かれていたとします。それはきっと考古学とかそういう学問的に、100万年前の世界の実態だ新発見だ!となると思います。でもそれが、もし100万年前の人類が書いた妄想だとしたらどうでしょう。私たちにそれを判別する手段はありませんから偽物だともわからず、それが歴史上の真実になります。

以上が記憶(また記録や認知)が世界を世界たらしめてることの証明です。

しかも人の記憶というのは曖昧で、機械の記録だって曖昧で(人間が手を加えれば変わっちゃうっていう点で)、『人類五分前仮説』とかいうのが横行しちゃうくらいには世界はあやふやなんです。

あやふやなもの信じられます?

信じられなくないですか?

世界は無意味です。

詭弁ですね、はい。

 

 

最終的な結論とかないです、すみません…。

 

生きる意味を持っている人はいいですね〜。

誰かに求められることは生きる意味になり得るって皆さん知ってました?

例えば、嵐の松潤が死ぬとするじゃないですか。そしたら生き返って欲しいって願う人がいるじゃないですか。それって求められてるってことじゃないですか。つまり、松潤には生きる意味があるってことなんですよ。

いいなあ〜〜〜〜〜〜〜!!!!

生まれてこの方、家族にしか求められたことがない〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!

果たして本当に求められているのか?

それだって定かではないですけども。

 

 

 

うーん。子供の親に対する愛情は宗教とかいろいろ話すこと、考えてることはまだまだあるんですけど今回の劇の内容とはあんまり関係ないんで今回はここら辺で終わりにします。

 

深夜テンションで書いてるから、絶対明日の朝死にたくなるやつ。

 

みなさんおやすみなさい。いい夢を