140字でおさまんないこと

見たい人だけ見てくれ

あんま面白くない話

『お父さんと伊藤さん』っていう映画を見た。

なんかやべーほど超身近にありそうな話だった。私も20代とかで就職したらなんだかんだ辞めちゃって三十路でバイト生活なんかな~とか、自分より20も上のおっさんと付き合っちゃうんだろうかとか、リリーフランキーなら付き合っちゃうな~とかとか……。リリーフランキーみたいな(ハゲてるけど)独特な雰囲気ある人好きなんですよ……。(ハゲてるけど…)

話の大筋は年老いた父親が20上の男と住んでる家にやってくるってのだった。両親が年老いていく悲しさというか、自分にも生活があるし親を拒否したいけどやっぱり親は親だし捨てられない…みたいな葛藤を感じた。つれーなーーと思った。

ちょっと違う話になるけど……。

自分のこと話すの好きなんで人を選びつつこの話をしているので、このブログを見た人で既に知ってる人もいるかもしれない。

私は、家族という集団に対して不信感があります。厳密に言うと、世間一般が家族はいいものでなくちゃならないって思い込んでること、に対して。

親とハチャメチャに仲が悪いとか、そういう自分自身の体験が元になってるわけじゃないので別に心配とかしないで欲しいんだけど、漠然とそういう気持ちを抱いてる。

みんなは他人の家族を見ていて、幸せそうだなって思うことはないだろうか。まあ往々にしてあるんじゃないかな。隣の芝は青いって言うし。基本友人の家は、なんだかんだ言ってこいつの家幸せなんだろうな~って思う。究極他人の家だしそこまで興味はないし。

ある友人に対しても、私は当たり前のようにずっとそう思っていた。あんまりその数年そいつと関わらなかったってのもあるけど、いつも通り幸せな毎日を過ごしてるんだろうなあと漠然と思っていた。で、久しぶりに会った時に「ご両親最近元気?」と聞いた。したら驚いたことに片親が亡くなっていた。もう本当に驚いた。はちゃめちゃに驚いた。亡くなった両親の方と面識があったってのも、そいつが親と仲がいいところを見てたってのもあるし、なにより関わりがなかった数年でさえ奴がへこんでる瞬間の噂が1ミリも耳に入ってこなかったから。

その時になんか自分の勘違いというか、家族ってなんだろうって思った。

世の中にはなんか「家族は幸せじゃなきゃいけない」みたいな風潮ありません?私だけかもしれないんですけど、そういう風潮に不信感がある……。

片親がいなくたって幸せな人はいるし、家の財力とかそういうのが満たされてても不幸せな人もいるし……。父親が認知症だって母親の片腕がなくたって弟が生まれてからほぼ植物状態だって、周りから見れば不幸せな家庭に見えるけどその渦中にいる人物にとっては日常なんだから、それは不幸せの定義にならないんじゃないか……みたいな。

 

 

 

〇ちょっと違う話〇

親ってなんだかんだ言ってこいつ人間なんだなって思ったことないですか?私はよくあるんですけど……。

母親に対してよく思います。こう、母親に対して昔は「母親ッッッ!」みたいな尊敬の念というか、「この人は私の親だから絶対に間違ったことを言わない。この人が言うことは正しい」みたいなことを漠然と思ってたんですよ。だから母が私が正しいと思ってないことを言うことに対して不信感を抱いたりとかしてたんです。私の意見は絶対正しいはずなのに、何でこの人は違うことを言うんだろう?なんで?私が悩んでるのになんでこんなに冷たいんだろう?とか。

でも最近、母のことを人間だと思って接してみると、この人は自分とあくまで他人だから私が正しいと思ってないことを言うし、私の愚痴はこの人にとって別に興味無いことなんだなって思うようになりました。友達みたいな感覚で母と接するんです。母が悪くいう人のことは私も悪く思うようになってましたが、その感覚も疑うことにしました。母は本当に私とは他人なんで、似てるところはあれど違うところだらけだと思うと全然悲しくなったりしなくなりました。

閑話休題

 

 

 

離婚がダメみたいな風潮あるじゃないですか。ドラマとか。離婚しようとしている親をとめたいってこどもが泣くから、赤の他人がお節介で「離婚はいけない!」みたいに言うやつ。

私もココ最近まで離婚はダメだろみたいなふうに思ってたんですよ。でも考えてみてくださいよ。例えば大学時代に付き合った男とそのまま順風満帆結婚したとしますよね。大学時代は時間に余裕もあって優しかった彼が、社会人になってから余裕なさすぎて常にイライラとか十分ありえる訳じゃないですか。人が変わってしまう可能性が十分にある訳じゃないですか。だいたい離婚の理由はいつも相手に見切りをお互いにつけた時です。相手を理解しなかった時です。しらんけど!でも、イライラしている相手を理解しようと思えます?無理ですよね。昨今は(あくまで私の感覚ですが)個人の自由とか権利みたいなものを尊重しようみたいな風潮も強いように思います。何を決断するにも自分の責任のうちであればOKなわけですよ。そりゃ離婚しますよね。外から幸せそうに見えても内情はそうじゃないんでしょうから。

そうなってくると次に問題になるのは子供の存在ですよ。なんかありますよね、子供の権利(?)みたいなのをめぐる色々。私はよく知りませんけど。

親はどこまで子供に責任を持てばいいんでしょうね~。一応法律的に私たちは(税金払うって意味で)20歳まではこどもですよね。それまでは親はこどもの責任を負わなければいけないわけです。でも血の繋がりはあろうと子供と親は自分とそれ以外という点において決定的に他人で、そして個人の権利が認められ始めた昨今をふまえれば私は子供が何歳であろうと離婚していいと思います。

(なんか精神的な話と現実的な話が混ざってしまって恐縮です)

でもそんなまだ小学生にもなってないこどもに明確な自我があるともいえません。

「離婚していい?」

「まあお母さんの言わんとすることは分からなくもないよ。お父さんアレだもんね」

「どっちついてくる?」

「経済的にはお父さんの方がいいけど……。個人的にお母さんが好きだからお母さんで」

とか絶対ないでしょ……。

(ここからは家族とかの話から話題が変わります)

 


子供は一体いつから自我を持つんでしょうね~。興味深いテーマです。絶対誰か研究してます。

というか自我?みたいなのはどうやってできるんでしょう。ハウトゥーメイク自我。自分に自我があると明確に言えるわけじゃないですけど、まわり見ててたまにいません?この子周り見て生きてんのかな……とか、いつも自分の話ばっかり……とか、自分の自意識とか自己愛の強さがダダ漏れって気づいてないのかな……みたいな人。自分が出来ないので、そういう、自分が周りからどう見えるかを踏まえて行動できる人が好きなんでそういう人には自我があるように思ってます。平たく言うと、大人だなあと。

逆に、自我はどうやって無くなっていくんでしょう。認知症とかそうじゃないですか。だんだん脳みそのバグが多くなるイメージがあります。

自我のないこどもは親に幼少期の責任を取ってもらい、自我のない老人は子供に高齢期の責任を取ってもらう……。そんな図が日本には昔からあったんだと思います。それが高齢者が昔より長く生きるようになって、退職して数年の責任を子供が負うだけで良かったのが十何年と続くようになった、みたいなふうに私は解釈してます。どこかで読んだか聞いたことがあるんですが、子供は最初手間がかかっても成長を見届けられるから苦痛ではないけど、高齢者はどんどんできないことが増えてって手間ばかりがかかるようになる自分の親を見るのが苦痛だ、と。しかも幼少期よりも高齢期の方が最近は長いですからもう地獄です。

家族というシステムは上手いシステムだなと私思うんですよ。孤独死とかあるじゃないですか、あれの責任を取る人が必ずいるんです(そもそも家族がいる状態では孤独死とはいいませんけど…)。どういうことかと言いますと、結婚して家庭を持つじゃないですか。昔ならおうちも2世帯とかで住むんででかいですし、絶対に誰かが誰かの健康状態を見てるわけです。突然倒れても絶対に、忘れられるってことがないんですよ。孤独死の問題はここにあるわけじゃないですか。誰にも見つけてもらえないしもし見つけてもらっても貰い手がないから無人仏とかに葬られるっていう。よく出来てますよ、家族ってシステムは。

まあ先述した通りその上手くいっていたシステムが、高齢者の超高齢化とか個人の権利とかの問題で崩れ始めてるわけですけども。

 


そんな中で、年老いた親、どうしましょうかね。一緒に暮らすにも私にも家庭が既にあるかも知らないし、単純に親のことを嫌いになってるかもしれないし。理論的には、現実的には、使えない人間は捨て置いた方が楽です。ンなもん捨てたもん勝ちです。でも……。

私はできないかもしれない。お母さん大好きだし。彼女がいくら年老いてなんに出来なくてヨダレとか垂れ流すような人になっても、彼女が私と決定的に他人だとしても、きっと捨てれないと思う。

そんな濃い血の繋がりを感じた映画でした。

 

 

 

実はこれ映画の感想なんですよ。知ってた?

 


終わります。次のブログとかで親に対する無条件的信仰心の話とかしたいね。

 


夜はまだまだ浅いですが。終わりはこれと決めたので。

みなさんおやすみなさい。いい夢を。