140字でおさまんないこと

見たい人だけ見てくれ

林檎の夢

 目が覚めるとそこは教室だった。

 朝の光が教室の中に降り注ぎ、いつもの騒がしいイメージからは程遠い静かな教室だった。お行儀良く並べられた机達は朝日を受けて薄い黄色の光を反射している。黒板はとても綺麗に掃除されていて新品同様の深い緑だ。年季の入ったフローリングは古めかしくはあるもののきちんと手入れは施されているようで、教室全体が澄んだ空気に満たされていた。なんだか世界全体の輪郭と僕の存在を保っている均衡が水面のように揺れる気分だった。ゆらゆらと淡く揺れる境界線が何だかとても心地いい。暫くは何も考えられなくてその波に飲まれるように揺蕩っていた。

 ふと、とある疑問が浮かんだ。

 一体僕はいつここに来たんだ?

 時計を見ると時刻はまだ朝の7時で、こんな時間に学校は開いていただろうかと思った。

 閉じられていた教室の扉に手をかけるとそいつは思いのほか簡単に開き、向こう側にはただの廊下が続くばかりだった。僕のいる教室の隣にはまた違う教室が並び、果てには家庭科準備室が見えた。おそらくその少し前の壁が途切れている空間は階段に繋がっているのだろう。窓には淡い水色が写り外の光景は伺いしれない。冬の空気を感じた。僕は廊下に出ようとは思わなかったので大人しく扉を閉めた。何の変哲もないただの学校だ。

 ハテ、と。暫く何もせず教室の中央に佇む。校庭側の窓には桜の木が見えた。ぼぅ、とそれを眺めているとふと学生時代の自分の席を思い出した。窓際の列から1つ内側に入った前から3番目。覗いてみると1冊の文庫本が入っていた。

タイトルには『林檎の夢』と書かれていた。

 

 『林檎の夢』には目新しい仕掛けもなく、一体どこの出版社が出しているのだと奥付を見ても、聞き覚えのない出版社で恐らく自費出版だろうということが推測された。林檎という名の少女が眠った時に見た夢をそっくりそのまま写した、言わば夢日記のような形で話は綴られていた。林檎という少女は重病で、病院から全く外に出られない体だったらしい。少女が病床でみた夢は奇々怪々、はたまた幼い彼女の可愛らしい願望を描いたような夢が多かった。

 他愛ない。そう思いながら読み進めていた。

 すると突如ガラリと勢いよく扉が開く音が聞こえた。そこでこの空間が今まで全くの無音だったことを知る。その音の方へ振り向こうとした時、僕は視界の端で赤いものを捉えた。

 僕の頭は音よりも先にそちらに意識を持っていかれた。

 それはりんごだった。

 窓にりんごの赤が反射し教室の中を照らし出す。

 窓の外ではたくさんのりんごが降っていた。

 

 

 真っ白な雪の中に立っていた。

 広い広い公園に雪がふり積もった場所のようだった。暫く空に手をさしだすとはらはらと雪が積もった。さっきまで何をしていたかが頭のどこかに突っかかって出てこない。

 うんうんと考え込んでいると、パシンと顔の右側に冷たい何かが当たった。その衝撃に僕は少しよろめいた。雪玉だった。突然のことだったのでいったい何がぶつかったのかわからず、思わず「痛い!」と叫んだのが後々になって恥ずかしくなる。それがどこから来たのかを目で追った。5.6m先に、ニッと笑った5歳ぐらいの女の子が立っていた。白いコートを身に着け白いマフラーをぐるぐるにまかれた彼女は得意げに僕を見つめた。恐らく僕に雪玉を投げつけたのは彼女だろう。彼女は僕の顔に上手く当たったのが嬉しかったのかキャッキャと笑っていた。僕は咄嗟に、彼女は僕の妹だと思った。

 

「林檎」

 

 と呼びかけるとその女の子は、ててて、と雪の中を笑いながら逃げていく。林檎が駆けると雪の上に小さな足跡が残った。そうだ、僕は妹と雪合戦をしていたのだ。

 

「林檎、待って」

 

 追いかけると彼女は逃げる。雪の地面に果てはないから、追い詰められるということを知らない彼女はひたすらにこの世界の端へ端へと駆けていく。ニコニコと笑う林檎は本当に楽しそうで彼女のこんな顔を見たのは一体いつぶりだろうかと僕は涙が出た。つかまえた! と彼女のわきを抱えあげてみると彼女はじたばたと暴れて僕の手からするりと抜けていった。僕に捕まりそうになると林檎は僕の足の間を走り抜けたり、あの手この手で逃げ回った。

 

「林檎、待って」

 

 林檎は待ってくれない。動き回って血液が回ったのか、彼女の透明な白い肌は朱に染っていた。一面の雪の中でその朱色はひどく映えた。ぷくぷくとまだ赤子のような彼女の頬はとてもまあるく、まさにりんごのようだった。

 

 後頭部に何かがぶつかる。目の前にいたはずの林檎はいない。僕は振り向いた。

 

*

 

「君さ、それやめた方がいいよ」

 

 一瞬なんのことだか分からなかった。

 

「え?」

 

 と聞き返すと先輩は怒ったような悲しいような顔をしていた。夕焼けに照らされた先輩の髪がなびく。学校からの帰路は住宅街を先輩と並んで帰るのが習慣だった。部活の終わった後では空はいつも少し暗く、家の方向が同じだからとそんなありふれた理由がその習慣の始まりだったはずだ。いつの間にこの人の髪はこんなに伸びたのだろうかと思う。

 

「そのペラペラよく回るくせに本心を一滴も注いでいない軽薄な語り口」

 

 自転車を押していた先輩は僕の2,3歩うしろで歩みをとめた。まさか止まるとは思っていなかったから僕も歩みを止める。遠くで小学生の遊ぶ声が聞こえる。私は君のことを理解したいのに君はいつもそれを拒む、と先輩は言った。

 先輩と向き合う。

 

 理解されたいと嘆きながら、本当のところ他者から君への理解を1番拒んでいるのは君なのさ。じゃなかったら、のらりくらりと私から逃げ回ったりしないだろう? 私はもう疲れたのさ。君は自分を理解しているのが常に自分でありたいだけなのさ。自分の愛を自分だけのものにしたい、そんな強欲が君の本性さ。だから他者にそれを渡さない。絶対に。気まぐれに私を掻き回すのはやめてもらえないかな。私は君のひとりぼっちの自作自演に付き合うほど酔狂じゃない。

 

 はらはらと先輩の頬を伝う涙をすくうすべを僕は持たなかった。ぎゅう、と握りしめられた先輩のこぶしが痛々しい。でもやっぱり僕は彼女の言っていることが全部は理解できなくて困ることしかできなかった。

 先輩は僕の美術部の先輩で、いくつか賞をとっているようなすごい先輩だった。いつも難しいことを考えていて、帰り道に先輩はよく僕に向かって語り掛けてくれたけれど当の僕が理解できたことは少なかった。先輩の描く色彩はどれも色鮮やかでそれが評価されていた。

 ガチャン、と先輩が自転車にまたがる。

 

「じゃあね」

 

 先輩が泣いている。

 

「僕、先輩の描く絵好きです」

 

 そう言ったら先輩は

 

「なにそれ」

 

 と言った。

 夕焼けに先輩が消える。

 先輩の描く絵はいつもこんな赤色だったと思った。

 

*

 

 背の高い、山高帽の男につけられる夢をよく見る。

 そいつは黒の燕尾服を着て僕を見ている。顔はよくわからない。そいつはいつも僕よりも先にいる。四つ辻の角からいつもこちらを見ている。気づいた時にはいつも見られている。一体いつから見ていたのか確認しようにも、毎回そこに来た時にハッと、山高帽の男の存在を思い出す。回避することが出来ない。奴の目を直接見た事はない。でも確かに目が合っている。僕はその繋がった視線をそらさず、真っ直ぐ四つ辻を通り過ぎるのだ。

 

「おにいちゃあん」

 

 妹が突然泣き出すことがある。僕と帰っている最中に、だ。彼女とはまれに一緒に帰る。やはり彼女もその男の存在を認め、そのようにポロポロ涙を零すのだ。

 彼女は真っ直ぐに指を指す。例の男のいる方向に向かって。僕はそこに何があるのか、なぜ彼女がこわがっているのか、分かっていながらただ彼女に

 

「だめだよ」

 

 とだけ伝える。彼女は僕の顔を見ながらまだ玉のような涙をこぼす。

 

「分かった?」

 

 そう言うと彼女はコクンと頷く。僕達ふたりはあと数十メートルの帰路をなるべくやつから遠ざけるような位置に妹を置きゆっくりと歩き出す。妹は僕の服の裾を握る。僕はその妹の手の上に自分の掌を重ね、ギュッと強く握りしめる。今思えば妹の小さい手をギュッと力いっぱいに握ったはずだから彼女だって少しは痛かったはずなのに、それに対して彼女が何か言うことはなかった。

 

 ある時、ある日の夕焼けの赤い帰路で、奴の隣を妹と慎重に通り過ぎようとした時だった。

 奴の隣をやっと通り過ぎる、そんな時だ。いつもは無口な奴が、フフっと笑ったのだ。

 まるで嘲笑うかのように、フフっと、笑ったのだ。

 僕はそれにとても驚いた。いつもは絶対に振り返ったりしないが、その時は奴がいる方向を振り返った。そして僕はその時に妹の手を離してしまったのだ。

 

「振り返っちゃだめだよ」

 

 それは誰の声だったか。振り返った先に山高帽の男はいなかった。ただひとり僕が四つ辻の真ん中で立っているだけだった。喉元をベトベトした汗が流れる。ゴクリと生唾を飲んだ。夕焼けに照らされ赤く燃えるような地面の中1人佇む自分の影だけを認め、僕は妹の手を離したことに気がついた。そこには今までいたはずの山高帽の高圧的な視線も僕の妹の姿も、何も無かった。

 本当に、何も無かったのだ。